Wednesday, April 6, 2011

「空の空」13


「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。彼が千年の倍も生きても、しあわせな目に会わなければ両者とも同じ所に行くのではないか。人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。目が見るところは、心があこがれることにまさる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことはできない。多く語れば、それだけむなしさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。」聖書・伝道者の書 6章


私たちは、いろんなもので、満たされようとします。『富』、『子ども』、『長寿』、『労苦』、『知恵』、『物質』や『言葉』によって満たされようとします。しかし、ソロモン王は、これらの良いものを、「自分の全て」や「神」にすると、「悪」と変って行く、と教えているのです。「人の上に重くのしかかっている」悪と成るのです。神以外のものに真の満足を得ようとすると、自分に害を与える悪であるだけではく、「むなしいことで」、さらに「それは悪い病だ」と書いてあるのです。全ての創り主のみが真の満足を与えることが出来ます。良いものを自分の究極的な満足にすると、そのものの奴隷になるのです。良いものは、神でないからです。

例えば「富」自体は、悪ではなく、良いものです。しかし、それが「全て」にしたり、「神」したりすると、色んな「悪」になるのです。その人にとって、富は、最高のものですから、多くの富を得るために、「働き蜂」に成り、家族を無視します。成功の階段を上るために、仕事の同僚を踏んだりします。利益を得るために、嘘もつきます。富を得るのは、他の人、特に貧しい人、のためなのに、ただただ自分のために蓄えるのです。良いものは、「悪」となって行くのです。

アレキサンダー大王の父、フイリップ二世王は、或る日、家来と相撲をとりました。家来は、手加減もしないで、フィリップ王を投げつけました。立ち上がったフイリップは意外に泣き出しました。家来たちは怪訝(けげん、不思議そう)な顔で言いました。「王よ。何とて泣かるるや。たかが一番の相撲に敗けたとて、泣かるるとは、王らしからず。」と。すると、フイリップは、自分が投げつけられた砂のあとを指さして答えました。「相撲に負けたゆえ、口惜しくて泣いているのではない。これを見よ。私が投げつけられた身体の跡だ。あぁ、たとえ世界を我が掌中にしたとて、結局、死ねばこの五尺の身体を埋める地面だけで終るのだ。それを思うと、人生のあまりの儚(はか)なさに泣いたのだ」

どんなにフイリップ二世王が国々、名誉、富を得ても、空しかったのです。満足はなかったのです。逆に、彼は、その野望で多くの人を苦しませたのです。彼にとってだけではなく、多くの人の「悪」と成ったのです。小畑進師はこう説明しています。「たとえ生命をかけて戦い、戦いつづけて帝国を築いて来たとしても、結局はこんな小さな地面に埋められるだけとは…。空の空、空の空よ、と。これを伝道者は「悪い病」と云いました。。。事実、マケドニヤの英雄フイリップとアレキサンダー父子二代で世界に築きあげたマケドニヤ大帝国は、外国人・ローマ人の天下に呑み込まれてしまい、あとかたもないのです。」「是れ空なり悪き疾なり。」

しかし、開放の道があります。全てのものー富』、『子ども』、『長寿』、『労苦』、『知恵』、『物質』や『言葉』—が神の摂理と恵みによって神から来ると認めると、『幸せ』であり、良いことだと、実感するのです。自分がどんなに働いても、この体や力や機会を下さるのは、本当は恵みの神だ、と分かるのです。ですから、自分は、その良いもの奴隷ではなくなるのです。逆に、恵みの神が、自分の人生の主役に成るのです。神は、私たちをけして酷使しないのです。

「まさしく、神なくしては私たちの人生など海の底の一すくいの泥にも劣る。私どもの人生から神が無くなったら、何の甲斐が残ることか。しかし、神あって、またこの神にあって私みたいな者も、神の子として輝く!生きてもよい!」小畑進師

この恵みの神は、どのようなお方でしょうか?聖書・ピリピ2:6−8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

「ご自分を無にして」と言う言葉に注目してほしいです。主イエス・キリストは、私たちが満たされるように、「ご自分を無にした」のです。また、キリストは、私たちが神とその真の愛に満たされるように、十字架上で自分の命を捧げたのです。私たちの行いによって勝ち取るものではなく、唯一の神であるキリストが与える極めた恵みによって頂き受け入れるものです。イエス・キリストを信じる信仰によるものです。ここに真の恵み深い満足があるのです。

良いものであっても、限度のあるものによって究極的な満しを得ようとしないで、天地を創られた人格的な神—主イエス・キリストーに満たされるのです。

私は、若い頃、しばしば、心の不満を感じた時、ビデオをレンタルして、それを通して、満足を得ようとしました。でも、その物足りなさを感じました。しかし、私は、今、毎朝、聖書を通して、祈りによって「イエス・キリストとその十字架」の麗しさを味わっています。キリストにあって神から満足があるのです。「天のお父様、この恵みを感謝します!」