Wednesday, September 23, 2009

「空の空」 (6)


聖書・伝道者の書2:12−26 私は振り返って、知恵と、狂気と、愚かさとを見た。いったい、王の跡を継ぐ者も、すでになされた事をするのにすぎないではないか。私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。
しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい」と。

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。

私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。

実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。

人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」


伝道者の書1:2にポイントがあります。「空の空。すべては空。」「知恵」と「労苦」も「空」であるのです。2:17にもこうあります。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。」神様(創り主)抜きでは、何においても、人生は、空しいのです。しかし、なぜソロモンは、聖書は、そのようなことを断言するのでしょうか?


ソロモン王は、ものごとの結果や結末を学ぶように教えています。「知恵」と「労苦」の結末を見ると、その空しさが分かるのです。今の目の前のものに捕われるよりも、長い目で全てを見なさい、と語っているのです。


英語では”eternal perspective"です。’Eternal’は、永遠、’perspective’は、角度です。永遠、すなわち神と聖書の角度からものごとを見ることです。「結局、限度のある知恵をもって生きたとしても、永遠のことを考えないなら、何になるか、とソロモンと聖書はいっているのです。」


先ず、光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっている」ソロモン王は認めているのです。「知恵」には優れたものがあるのです。しかし、ソロモンは、先を見るように教えています。みな(賢者も馬鹿者も)、同じ結末に行き着くことを私は知った。」その究極的な結末は何でしょうか?「死」です。


「生まれては死ぬるなりけり押しなべて、釈迦も孔子も猫も杓子(しゃくし)も」一休。ある牧師はこう書きました。「知恵第一の菅原道真だって、諸葛孔明だって、竹中半兵衛だって、みなそこらへんの碌(ろく)でなし野郎と同じ。死んで粗大ゴミになるばかり。」人間の「知恵」は、それほど一時的なものですから、聖書はそれに夢中になるのは空しいと教えているのです。

また、「事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。」なかには、優れた賢者が出て来て、代々皆その人を覚えて行きます。ソロモン王は、その一人です。しかし、ほとんどの賢者は、忘れられてしまうのです。そう言う結末です。ならば、そんなに人間の「知恵」に夢中になる必要はないのです。


「知恵」だけではなく、「労苦」もそうです。結末を見ると空しいです。その一つの理由は後継者のために残さなければならないからである」とあります。元の持ち主が賢くよく働いても、後の持ち主になる継続者は、知恵のあるものか分からないのです。彼は、苦労して働かなかったので、その遺産のありがたみも分からないのです。


良く聞くことですが、多くの遺産は子孫をだめにする話です。諺にこうあります。「児孫(じそん)の為に美田(びでん)を買わず」西郷隆盛。賢い金持ちは、良く自分の子供によりも、慈善団体に献金するようです。多くのお金を手に入れて自分の人生をだめにした人の話を聞くと悲惨です。


でもそれよりもっとみじかな結果があります。「知恵」や「労苦」に支配されると、「その心は夜も休まらない」のです。夜はそのことに支配され眠れないのです。多分多くの私達は、それを体験したことがあります。「知恵」や「労苦」は、本当に眠れないほど大事なのでしょうか?


「骨折り損のくたびれ儲け。」誰でもこれを体験したことがあるでしょう。結果を見ると、働きすぎて、眠れないだけではなく、疲れはててしまう、妻は知らない人になってしまう、子供はよってこない、自分の殻に閉じこもってしまう、ある人は、過労死に成るのです。仕事一筋の生涯は、悲しい結末にたどり着きます。


ならば”いかに生きるべき”でしょうか?「知恵」や「労苦」にのめり込まないことです。勉強や仕事ばかりに夢中にならないで、普通のことにも食べたり飲んだり」することにも楽しみを持つことです。花を見たり、人とゆっくり話したり、赤ちゃんを抱いたり、本を読んだり、温泉を楽しんだりするのです。「これもまた、神の御手によることがわかった。」大きなことから小さなことまで全てのものは、神様(創り主)からのプレゼントです。


さらに”いかに生きるべき”でしょうか?勉強や仕事ばかりに支配されないで、全ての良いものを下さる恵みの神を喜ぶのです。「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか?」罪人を愛しそのために死なれたお方<イエス・キリスト>の御支配にあることです。その恵みは、真の楽しみを生み出すのです。


はじめに書いたことですが、ただ今のことに捕われないで、eternal perspectiveを持つことで、永遠の角度からものごとを見る重要性です。私は、ある日、ゆめタウン丸亀・紀伊國屋書店で不思議なものを見ました。私の大好きな「考える人」の彫刻でした。オーキュスト・ロダン(1840−1917)の作品は、当時「地獄の門」という作品の一部でした。「神典、地獄編」に登場し、人間の運命について思考している詩人ダンテの像として制作された、と書いてありました。「考える人」ダンテは、地獄、そこある悲惨な結末を見て、それについて考えているのです。


私達もそうです。一時的な「知恵」や「仕事」ばかりを考えないで、神様を無視する自分の恐ろしい運命を考えるべきです。ダンテのように、じーっと時間をかけて考えるべきです。また、恵みに満ちているイエス・キリストの十字架の意味を考えるべきです。キリストは、私達のような罪人の死ぬべき死を十字架上で代わりと成って死にました。特に、これを考え、さらに考えるべきです。この方にある永遠の命を信じ受け入れるのです。


「世の中は喰ふてはこして寝て起きて、さてそのあとは死ぬるばかりぞ」一休。いや、一休さん、ごめん。そこで終わらないのです。聖書・ローマ5:21私たちの主イエス・キリストによって、神の御前で正しい身分を与えられ、また、永遠の祝福を与えてくださるのである。」ここにずっと残る「楽しみ」があり、それを与える神様(創り主)御自身に永遠に残る喜びと満足があるのです。