Sunday, July 19, 2009

「空の空」 (5)


聖書・伝道者の書2:1−11『私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。
楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。

私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。

私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つも益になるものはない。』聖書・伝道者の書2:1−11]


「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい」と聖書に本当に書いてあるのか、疑問に思う人がいるでしょう。でも、伝道者の書2:1に正にそう書いてあります。

確かに、クリスチャンに対するイメージは“清く、正しく、美しく”ですが、聖書とキリスト教は、けして禁欲主義ではありません。‘欲’は、禁物と言う教えがありますが、‘食欲’がないと健康ではない証拠でもあります。

この箇所にある「快楽」は、ヘブライ語の「シムカー」と言う言葉で、喜び、嬉しさ、楽しみ、笑い、とも訳せます。英語では、pleasureで、日本語の快楽と歓喜、両方に訳せます。

‘楽しみ’は、良いものですが、限度があることを知らなければなりません。ですから、間もおかずに、ソロモン王は、またしかし、これもまた、なんとむなしいことか」と言っています。

ソロモン王は、「知恵によって導かれて」[実験のようにして調べた後で]、‘楽しみ’の空しさを一つ一つ説き明かします。

「笑いか。」先ず、ソロモンは、笑いについて触れます。私は、昔から‘お笑い’のドリフターズや、コント55号をよく見ました。今テレビを見ると、テレビのプライム・タイム[ゴールデンアワー]の多くがお笑い関係のテレビばかりです。私達の社会について何かを語っているのではないでしょうか。

ソロモン王は、「ばからしいことだ」と厳しく釘を打ちます。なぜでしょうか?笑いは、麻酔になりがちです。本当の問題や、傷を癒せないのです。

ある心の病のあった方は、カウンセラーに行って、こうアドバイスされました。“近くのサーカスにおかしなピエロがいるから、サーカスに行って、思う存分笑いなさい。”しかし、その方はこう答えました。“私があのピエロです”と。笑いは、ある程度の癒しを与えますが、本当の癒しと喜びを与えることはできません。「おもしろうて、やがてかなしき舟かな芭蕉

ソロモン王は、「からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。」聖書は、適度のワインなどをけして否定はしていません。酒は、ある程度の楽しみを与えるのです。

しかし、この箇所の文脈を見ると、「それがいったい何になろう」とあります。「二日酔の虚しさ、満腹感の気だるさ。〈快楽主義〉のパラドックスです」と小畑進牧師は書きました。酒も、一時的な薬であり、続かないのです。逆に、快楽が苦痛になるのです。

ソロモン王は、「事業を拡張し」ました。彼は、「邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、。。。あらゆる種類の果樹を植え、。。。木の茂った森を潤すために池も造り、。。。男女の奴隷を得、。。。多くの牛や羊もあった。」ソロモンは、当時の世界のトップ・クラスの事業家でした。

現在も、男のロマンは、事業を企画し、実践し、人を活用し、成果を楽しむことです。これが一種の‘快楽’です。達成感や快感を覚えるのです。‘事業達成’によって、ある程度の満足を得ることができます。しかし、文脈を見ると、空しいのです。限度があります。本当の楽しみの陰だけなのです。

ソロモン王は、「また、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。」ある宗教は、「御利益」(ごりやく)を説きますが、しかし、これも、空しい、本当の楽しみと益を与えない、とソロモンは語っています。

ハワード・ロバーズ・ヒューズ(1905〜1976)はアメリカの大事業家、20世紀を代表する大富豪として知られ、「地球上の富の半分を持つ男」と言われました。様々な事業を手がけ、多才な大富豪として富と名声を手にしたヒューズでありましたが、1946年の飛行機事故に痛み止めとして使われた麻薬の奴隷となり、深刻な精神的な病に陥りました。その晩年は孤独であり、孤独で死にました。「空の空。」

ソロモン王は、「男女の歌うたいをつくり」ました。ビートルス、マイケル・ジャクソン、美空ひばりのような人を育てたのでしょうか。ソロモン王の父ダビデ王(BC1000年)の讃歌は、世界中で今でも歌われています。ソロモン王は、当時の音楽を極めたでしょう。しかし、空しさを味わい、「空の空」でした。

私の家内は、音楽の先生に成りたかったのです。中・高・大学生の頃これを目指しました。目標を達したら、空しさを味わいました。幸いに小さい時から、聖書に触れていました。大人になってイエス・キリストの十字架の愛を知るものとなりました。

ソロモン王は、「人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れました。」彼は、聖書(創世記2章)に従わないで、多くの‘妻’を自分のものにしました。「人の子らの快楽」sex()の快楽を‘極めた’ソロモンは、これにも限度があるのだ、とここで教えています。

聖書は、もちろんを否定しているのではありません。夫婦間での性は素晴らしいものと教えています。特に、聖書の雅歌(がか)で夫婦の性的愛を讃えています。しかし、どんなに夫婦愛があっても、人間が与える愛に限度があり、よりすぐれた愛と満足を指しているのです。

ソロモン王の‘最後の実験’は、労苦でした。「労苦をも喜んだ」とあります。彼は、「あらゆる楽しみをしました。」しかし、楽をしたわけではありません。彼は、苦して労して大事業家に成ったのです。彼は、「労苦」をも快楽と見ました。確かに、仕事で汗水流して、一つの快感を体験します。

ソロモン王のコメント:「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」やはり心残りがあるのです。

「自殺こそ最大の快楽」と快楽をつきつめた紀元前の快楽主義者ヘゲシアスは説きました。「快楽というものは、なかなか得られない。快楽はさらなる快楽を求めるが、それが得られない。それゆえ苦しくなる。むしろ、生まれなかったほうが幸いである。しかし、生まれてしまったのなら、自殺することだと。

もちろん、自殺は間違いであることは言うまでもありません。聖書は「最大の快楽」は栄光と恵みに満ちている創り主御自身にあると語っています。『ウエストミンスター教理問答』にこう書いてあります。「人の主なる目的は神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである。」創り主御自身に喜びがあるのです。

ベートベンの“喜びの歌”(聖歌25番)、英語では“Hymn to Joy”は、「Joyful, joyfulwe adore Thee (you).」日本語に訳すと「喜び、喜び、私達は、あなたを崇めます」と創り主を讃えています。

「み神は罪あるものを愛し、み子なるイエスをばつかわしませり、赦しのみ恵み、きよむる力、筆にも、声にも、のべつくしえず。」この喜びにあずかりたいものです。

[歌詞:Henry Van Dyke, 1852-1933、作曲:Ludwig Van Beethoven, 1770-1827]